大光坊の紹介
大光坊の歴史

身延山二十八世妙心院日奠上人が身延山全山を大曼荼羅の様相に従って整備をなされました。その時、祖師堂の裏手にあった三光堂の別当所、大光庵を現在地に移転され、その開祖となりました。その後、明治三年、身延山七十世止明院日祥上人により大光坊と改称されました。
三光天子・日蓮上人自記作の大黒尊天が勧請されております。
身延山の中腹に位置する由緒ある坊です。
大黒堂

大黒堂は寛文二年(一六六二)にこの地に建立し、大黒堂に祀る大黒天は日蓮聖人の御自作と伝わっております。
そしてこの大黒天は、面白い話があります。
ある時、御堂の修理のために仏具商を呼んだのですが、見事なお姿に心がくらんだ仏具師は、真夜中に大黒天の御像を盗んで逃げ去りました。一生懸命に走り身延山から遠く離れて「もう一安心だ」と一休みしました。夜が明けあたりを見廻すと、なんと大黒堂の縁の下に座っているではありませんか。仏具師は一晩中、大黒天の御姿を背負って、御堂の周りを走っていたにすぎなかったのでした。
仏具師が悔いを改め、御像は無事に戻されました。これも大黒天に「この地を離れたくない」というお心があったからでありましょう。
三光堂

三光堂は三光天子を奉っており、1665年(寛文5年)甲府宰相徳川重郷が、子孫繁栄の祈願所として建立されたお堂です。
三光天子とは、大日天子、大月天子、大明星天子の総称。太陽、月、星を神格化した名称で、大空にあって我々の生活に最も関係の深い天体です。天から光を もって我々を守り、天界に属すので天子と呼ばれます。
日蓮聖人は『四条金吾殿御消息』のなかで、「三光天子の中に月天子は光物とあらはれ、龍口の頸をたすけ、明星天子は四五日已前に下て日蓮に見参し給ふ。い ま日天子ばかりのこり給ふ。定て守護あるべきかと、たのもしたのもし」(定五〇五頁)と述べ、三光天子の守護は必ずあると確信されていました。
相輪塔

1781年(天明元年)
祖師堂に於いて、日蓮聖人五百遠忌報恩記念に際し、天下泰平を祈願して三万部のお経を読誦してこの地に建てられました。
尚、この相輪塔は日光と比叡山、そしてこの身延山と、日本に三ヶ所建てられております。
釈尊像

このお釈迦様は、霊鷲山において、百日の御修行をされておられるお姿でございます。
1677年(延宝5年)京極高勝郷の寄進によって造立されました。
昭和41年身延町文化財指定となる。
身延山全山の姿

身延山は、宗祖日蓮聖人の御神が永遠にすまわれるところであるから、山そのものが聖人のお姿であるとも考えられます。したがって昔から山内の諸堂宇は皆そろぞれの位置に意味があるとみられてきた。
すなわち聖人の御頭は奥之院思親閣、御眼の場所には三光堂(大光坊)があって三光天子を祭り眼光になぞらえ、ちょうど御胸のあたりに丈六の釈迦牟尼仏があって、聖人が釈尊の御心を奉帯していることを表し、一切教蔵(焼失して今はない)と鬼子母神堂とで両手に経巻と笏を持っていることを表します。そして祖師堂その他の諸堂のある山復の平地は聖人の御膝の上。山全体に茂っている杉松の常磐木は聖人の墨染めの御衣。季節になるとみごとに色づく紅葉樹は御袈裟ともみられます。「身延山久遠寺史研究より」